可能性のど真ん中

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「普遍的」なもの。イスラム女性の柔道出場拒否について。

こんにちは。24カクです。

普遍的な価値観って、なんだろう。。


2週間ほど前、出張先で何気なく目にしたテレビのニュースに、そんなことを思いました。

インドネシアのジャカルタで開かれた「アジア・パラ大会」に参加したイスラム教徒の女子柔道選手が試合出場を拒否する事態に。

イスラム教徒の女性が頭部、頭髪を覆う「ヒジャブ」と呼ばれる頭用のスカーフを着用したままでの試合参加が国際柔道連盟のルールでは認められておらず、選手自身もヒジャブを脱ぐことを拒否したため、試合に参加できず不戦敗となったもの。

試合中の組み手や投げ、寝技によってヒジャブが絡まり首が締まる恐れがあり危険、というのが着用禁止の理由ということです。

「文化」か「ルール」か

悩ましい話だな、と思いました。このニュースを見て。

(女性が頭部や頭髪を隠さねばならない点に関する議論はあるとして)、
「文化」という文脈でいえば、この女子選手にとってヒジャブを着用しての試合出場は自然な行いだったはず。そして、最終的にヒジャブを脱ぐことを拒否した点を考えると、自文化へのこだわりもあったと思う。

一方で「安全」「命を守る」という名の、絶対的看板=普遍的価値観を掲げた「国際ルール」がある。ヒジャブを着用することで、試合中に首が締まるかもしれない、それでは選手の安全が確保できない、最悪の場合命を守れないかもしれない。

固有の文化的価値というものは、「安全」「命を守る」という名の絶対的看板=普遍的価値観の前では力及ばず、ということかも知れない。

普遍的な価値観って

安全。命を守ること。

現在の民主国家で、このような「普遍的」価値観に異を唱えるところはないでしょう。

「命が何より大切です」。
違和感ないですよね?


でも、これって本当に時代を超えて存在する「普遍的」な価値観なんだろうか。


ぼくらの国でも、ほんの200年も遡れば、自分の生き方に筋を通すための切腹なんてものがあった。自分の命よりも、その生き方(死に方)が大切だという価値観があった。

そんな価値観も文化と捉えるなら。

命を犠牲にしてまで守りたいものがあったのなら。

「命の大切さ」はその「普遍性」を失ってしまいます。


「文化」も「命の大切さ」も、どちらも絶対的な顔をしてるだけで、ほんとは単に互いに相対的なものかも知れない。時代によって変容していくだけのものかも知れない。


そう、


「普遍的」なんてものはないのかも知れない。


そんなことを考えさせられました。


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