可能性のど真ん中

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海外に興味を持ったきっかけ。休学と海外ボランティア。自己紹介の続き-その2

こんにちは。24カクです。

前回記事(⇨海外に興味を持ったきっかけ。大学選び。自己紹介の続き-その1 - 可能性のど真ん中)からの続きです。


大学を1年休学

発展途上国に対する問題意識から、大学を1年休学して実際に途上国に住んでみたいと思うようになりました。

実はその時、大学3回生の半ばで周りの友人は就職活動で忙しくしていたのですが、当のぼくはといえば、


別に今社会に出てやりたいことも明確に無いしなー。。

就職活動って面接とかで色々と自分の思いとか話すわけでしょ?志望動機とか。

そもそもやりたいことも明確じゃないのに志望動機も何も無いよなー。。


こんな感じでした。


やりたいこと、かー。。


当時の関心事は、

一般企業に就職して社会に出ることではなく、営利目的を離れた純粋な社会貢献がしたい!

途上国のこと勉強してるけど、そもそも「貧しさ」ってどういうこと?


こんな感じでした。


まずは途上国に住んでみて、理論だけじゃなくて現実をしっかりと体感したい。

自分の目で「貧しさ」なるものを知りたい。

そう思うようになりました。

当時は社会のことなんてほとんど分かってませんでしたから(今も、か。。)、純粋な社会貢献と言えば、ボランティア。しかも、途上国と呼ばれる国で。

知人のツテを頼って、フィリピンはルソン島の山奥にあるNGO団体を紹介してもらいました。


海外でのボランティア活動

ぼくがお世話になった所は、大正時代当時、アメリカ占領下にあったフィリピンにおける避暑地の1つ。

当時の技術では、なかなか上手くいかなかったマニラからの山道開通工事において、勤勉な日本人移民が大活躍。

最初は道路建設に携わった日本人移民(日系1世)はその後、現地で小規模な商売等で生計を立てるようになり、現地に根を下ろすようになります。

現地で結婚される方も出て来て、日系2世が誕生します。

そこに太平洋戦争が勃発。

戦後まもなく、まだ反日感情の強かった時期、日本人の血を引くことが判明しただけで命を奪われる危険のあった2世の人達は戸籍を焼き捨て、身元を消して山奥へと身を隠します。

命を守るためにはそうせざるを得なかった、と聞いています。

そのような状態では当然まともな職にも付けず、非常に厳しい生活を余儀なくされます。

この辺りの歴史はこの本が詳しいです。

フィリピン残留日系人 (母と子でみる)

フィリピン残留日系人 (母と子でみる)


しばらく経ち、現地での反日感情も薄れて来た頃、已む無く山奥に身を隠していた日系人の方々を救い出そうという活動が起こります。

その活動主体が、ぼくがお世話になったNGOです。

焼捨てられた戸籍の法的な回復が主な活動内容ですが、その他にも日本語教育(3世、4世の方々を対象に)を通して、日本語関係の就労を促すといった活動もしていました。

そこで、約一年間、住み込みで日本語教育のお手伝いをさせて頂きました。

日本語教育を専門に勉強したことがなかったため、生徒さんからすればとても満足のいく授業にはならなかったと思いますが、それでも一生懸命に授業を聞いてくれる生徒さん達。

素人なりに、必死に勉強して毎日の授業に備えていました。

歳の近い生徒さん達は休みの日にBBQに誘ってくれたり、一緒に山を降りて海に遊びに行ったり。

ある時は近所の生徒のおじさんが家に呼んでくれて、奥さんの手料理をあてに、ガレージでビールを飲み明かしたり。

そして、最後の授業ではサプライズで、ぼくに対する感謝のケーキを用意してくれたり。

帰国の際に開いてくれた"卒業式"では、生徒さんもぼくも号泣。。


今思い出しても心温まる思い出ばかり。

そして、拙い授業に最後までついて来てくれた生徒さん達、

日々の生活をサポートしてくれたスタッフの方々、

そうした人たちへの感謝の気持ちでいっぱいになります。


そんな素敵なみなさんとの思い出は、その一年で手にした大きな宝物の一つなんですが、もう一つ手にした大きなもの。

それは、「貧しさ」なるものを知った、ということ。

長くなったので、これは別の記事で。

⇨次の記事へ続く
貧しさを知るということ。海外ボランティアの現場で。 - 可能性のど真ん中

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